暮らしの中から見えてくる風景や心象を表現し続ける、エッセイストの広瀬裕子さん。
2017年冬に、鎌倉から香川へ移住。
現在、設計事務所のディレクションに携わり、場づくり、まちづくりにも関わっています。
住む場所を変えて、見えてきたもの、感じた思いを綴ります。
湯の沸く音がすると、ハンカチを手にし銅製のやかんに手をのばします。
取手の仕様は銅のままで、湯が沸くと同時にやかん全体が熱くなります。
取手をどうのようにするか──は、やかんを購入するとき選択できました。
直接、手で触れずにすむよう薄い木の皮を巻くこともできたのです。
厳密に言えば、いまもお願いしたらそのような形にしてくれるはずです。
でも、わたしはその選択をしませんでした。銅でつくられたとてもきれいなやかんは、取手も銅のままがうつくしいと思ったのです。
使いはじめると、何の仕様もしていない取手はときに不便さを感じます。
湯が沸いても、すぐに持てないからです。当然です。でも、そう思いながらも、しばらく、そのまま使っていました。うっかり素手で持たないように、と、その点に注意しながら。
しばらくすると「あれ。これは」と思うよになります。
「これは、お茶の手順に似ているかもしれない」と。
茶道をしている方は思い当たるかもしれません。袱紗を手にし、釜の蓋に手をのばす所作です。
茶道の釜は、蓋のつまみが熱くならない加工はされているようには見えません。
そのため、熱くなった蓋をあけるため、たたみ直した袱紗を手にします。
蓋を使いやすよう工夫したり、手を加えないでいる理由をわたしは知りません。
けれど、何かしら大切なことがあり、そのままにしているのだと思います。
袱紗をたたみ直す所作も、しずかに蓋をあける手も、間も、必要なのでしょう。
蓋をとり、湯気がひろがり、湯の沸く音が耳にとどくとき
それまでしんとしていた茶室が、ほんのすこし躍動します。
やかんの取手は、当初のままにしておくことに決めました。
湯が沸いたら、ハンカチを手にすればいいだけのことです。
不思議なもので、そう決めたとたん、不便さはなくなりました。
むしろ、湯が沸きハンカチを手にするたび、お茶の時間を思いだし背すじがのびるほどです。
ハンカチに手をのばすことと、袱紗をたたむことは、わたしにとって同じ意味を持ちます。
そのとき、湯を沸かすという日常が、茶道という非日常につつまれます。
いえ。
非日常と日常は、絶えず行き来していて
非日常と思っている世界が実は目ざす日常であり
非日常と日常の境が消えていくことこそが、本質なのかもしれません。
少なくとも、そのとき、わたしが見ている世界はそういうものです。
今日も湯が沸きました。
(月1回連載)
東京都生まれ。エッセイスト/設計事務所ディレクター/縁側の編集室共宰。「衣食住」を中心に、こころとからだ、日々の時間を大切に思い、表現している。
2017年冬、香川県へ移住。おもな著書に『YES』『50歳からはじまるあたらしい暮らし』『整える、こと』(PHP研究所)、『手にするものしないもの 残すもの残さないもの』(オレンジページ)など多数。