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真夏日の鳥は骨まで見せて飛ぶ 柿本多映
真夏の太陽の光の中を飛んでいる鳥は骨まで見せて飛んでいるというのです。鳥をジッと見ていると、鳥の骨格まで見えてくるのでしょうか。見えないものが見えてくる瞬間があるのかもしれませんね。そして、その瞬間をサッと捉えるかのように言葉が浮かんでくるのです。
出入口照らされてゐる桜かな 柿本多映
何の出入口なのでしょうかね。桜の森の出入口と読めば、「実」の場での景です。それを桜の森の向こうに広がっている別の世界への出入口だと読めば、それは「虚」の世界の景になります。作者は実と虚の間に立っているように感じられます。
わたくしが昏れてしまへば曼珠沙華 柿本多映
お彼岸の頃になりますと、決まって曼珠沙華が赤い花を咲かせますよね。夕暮れが深まるにつれ辺りが暗くなってゆきます。自分の姿が夕闇の中に紛れていってしまっても曼珠沙華の花の赤だけは見えるというのでしょうか。それとも、自分が昏れていってしまったら曼珠沙華になるというのでしょうか。自分は曼珠沙華の化身かもと思ったりするのです。そこには無意識の中の意識が立ち現れてきているのかもしれませんね。
この世から水かげろふに加はりぬ 柿本多映
補陀落や春はゆらりと馬でゆく
湖などの水面にゆらゆらと陽炎が立っているのです。その光の揺らめきに、この世から乗って行こうというのでしょうか
補陀落は観世音菩薩の住むという山です。その補陀落を目指して自分は馬でゆらりと行こうというのでしょうか。
どちらもこちら側の世界から向こう側の世界へ行こうとしているのではないでしょうか。この句にも自分の内部にある意識が立ち現れてきているような気がします。
柿本多映は、「俳句を書く以前の存在の問題であり、最も身近な日常生活にあって摑みどころのない深さを、どれだけ感じとることが出来るか。」と言います。それは、自分の無意識の世界へ降りて行って、そこで見えてきた存在、いのちを俳句で詠もうとしていることなのではないでしょうか。
そしてまた、「書くという行為は、自己を確認するためのものである」とも言っているのです。
妙といふ吾が名炎えたつ八月よ 柿本多映
人体に蝶のあつまる涅槃かな
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私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
石嶌 岳(俳人)