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繭玉の揺れてゐるそれもまた夢 今井杏太郎
繭玉はお正月の飾り物で、紅白のお餅を小さく丸めて柳などの枝に付け、神棚の近くに飾って豊作を祈るものです。その繭玉がゆらゆらと揺れているのです。繭玉の揺れているという時間のひろがりもまた夢だというのです。半ば眠っていて、半ば覚めているようなぼんやりとした感覚にいるのでしょうか。いわば現実の世界と夢という虚の世界との移ろいの間に作者はいるのでしょう。
夢の夜のゆめのむかうの菫かな 今井杏太郎
夢の向かうに見えた菫は、どちらにあるというのでしょうか。
ゆらゆらと揺れて雀はかげろふに 今井杏太郎
ゆらゆらと揺れて雀は陽炎の中へ入っていく景色なのですが、その雀も陽炎と同化して仕舞には陽炎になってしまうというのです。眼前にある空間が別の時空へと広がっていきそうですね。
みづうみの水がうごいてゐて春に 今井杏太郎
大きな湖の水がゆらゆらと動いているうちに春になるというのです。そうした揺蕩いという空間的感覚に移ろいゆく時間的意識が加わっている感じなのであります。
水に波冬百日をただよふか 今井杏太郎
そうして水は揺蕩い始めるのです。冬の間中。この空間と時間の揺蕩いに対する作者の眼差しは、次第に自分の内なる漂い心へ向けられ、限りない深みと移ろいをもたらし、意識が時空のなかを漂っているみたいです。
そうしますと、今、ここに、当たり前のようにある景色が、なんとも不思議に満ちているように思えてくるのです。「気づき」であります。
すこし揺れそれから暮れて五月の木 今井杏太郎
杏太郎の俳句はいつも揺蕩っているのです。
揺蕩いながら当たり前の景色を眺めているのです。
夕風の吹くころ水に燕来る 今井杏太郎
夕風が吹いて来るころ、水面に燕は来るというのです。その当たり前のことを不思議がっているのです。
杏太郎は、「猿が木から落ちることの意外性を考えているうちに、猿があたり前のように上手に木をのぼることの面白さに気づいた。むかしから、あたり前のことを不思議のこととして思い続けていたが、この頃にして漸く、なんでもないあたり前のことの面白さが見えはじめてきたような気がしている」と言うのです。
春の野に妻と居ることふしぎなり 今井杏太郎
そこにあることの不思議さは、儚さであり、それを呟くということは自分の心の深みへの問いかけでもあるのです。それを俳句にしていっているのです。つまり、「呟けば俳句」なのであります。
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私たちは春夏秋冬の移ろいのなかで暮らしています。俳句は、悠久の時間の流れのなかにあって「いま」という時間と、私たちの目の前に広がっています空間における「ここ」という断面を切り取って詠みます。
芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言っております。この「物の見えたる光」に気づき、それを受け止めて十七音にしてゆくのです。 そして、「物の見えたる光」を受け止めるには、正しく見るということが必要になってくると思います。それを俳句として正しく語ることよって心が解放されていくのです。
石嶌 岳(俳人)