世の中(生命)をあわ粒のように、
かげろうのように観る人は、
死も同じように観る。
「ダンマパダ」(170)
画像・AdobeStock
花が散る、家がこわれる、木が燃えて灰になる、人が死んだ──人はそれらを見て、無常であるといいます。しかし、それだけでは、無常をわかったことにはなりません。花が散ったとわかるのは、花が咲いていた記憶があって、それと比べてはじめて、今、花が散ったとわかるのです。ただ過去の記憶と、現在、観察した姿とを比較しているだけのことです。それは観念で無常を理解しているだけで、実感しているのではありません。
「知っていること」と「実感すること」とは大きく違います。そこには「わたし」というものがあって、花が散るのを見ているだけです。見ている「わたし」も同じように、移ろいゆくものであるというたしかな実感がともなっていなければ、無常を真にわかったことにはなりません。もっとも根本的なことは、この「わたし」というものが無常であるということなのです。
1 2
バックナンバー「 原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話」