原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話

自我をだしたとたん心の成長は止まる

アルボムッレ・スマナサーラ
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無意味なものを、有意義とみなし、
有意義なものを無意味とみなす人びとは、
その誤った心にとらわれて、
けっして真実は得られない。

 

                   「ダンマパダ」(11)

画像・AdobeStock

わたしたちは、「ないもの」を「ある」と思い、「あるもの」を「ない」と思っています。価値があるものを価値がないとして、価値がないものを価値があるとしています。

経典にはこういう話があります。生まれつき目の見えない人がいました。ある男が、その人にとても醜い汚れたボロの服を差しだして、こう言いました。
「この服は世界でもっとも美しい服です。高価なもので、大切に使わなくてはいけません。生命をなくしても、この服だけはなくしてはいけませんよ。それくらい価値があるのです」

かれはその話を信じて、その服をいつも大切に着ていました。あるとき、かれの姿に哀れみを感じた医者に助けられ、かれの目は見えるようになりました。目が見えたら、自分が世界一美しいと思って着ていた服は、汚れた粗末なものだったということがわかりました。かれはなんの未練もなく、その服を脱ぎ捨てました。
わたしたちの人生もまたかれと同じです。ボロの服を身にまとい、それを美しい服だと思い込んで暮らしているのです。その服が意味するものは、まさしく「自我」です。自我があるために、わたしたちは自己と他人を区別して、自分を大きく見せようと競争します。それが争いの原因になるのです。

自我が消えてしまえば、相手が自分よりも劣るとか、立派だとか区別して競うことはなくなって、心は穏やかになるのです。自我がなくなるといっても、あったものがなくなるわけではないのです。じつは、もともと自我というものはなかったのです。自我の働きは、「自分がもっとも大切で偉いのだ」という思い込みです。そこが問題なのです。

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