日米親善に尽くした偉大な実業家 渋沢栄一

河合敦(歴史作家・歴史研究家)
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

新政府の一員として活躍

明治2年(1869年)、そんな栄一のもとに思わぬ通知が届きます。新政府からの出仕命令でした。こうして栄一は、わずか29歳で民部省租税正(現在の財務省主税局長のような職)に就きます。

栄一を推挙したのは、大蔵省の高官であった郷純造という人物。これまで面識はありませんでしたが、栄一の活躍ぶりを聞きつけ、政府に登用を働きかけたのです。栄一はのちの著書『論語と算盤』で「その人に手腕があり、優れたる頭脳があれば、仮令早くから有力な知己親類がなくても、世間が閑却してはいない」と述べていますが、この経験を踏まえた言葉だったのではないでしょうか。才能ある人を、世間は放っておかないものです。

しかしまもなく、栄一は大蔵大輔(次官)・大隈重信のもとを訪ね、「できたばかりの大蔵省で、自分は何をすればよいかわからない。私は静岡藩で事業経営がしたい」と辞意を伝えます。すると大隈は「新政府は八百万の神の集まり。皆が手探りなのだ。だから、君にも神の一柱として新しい日本の国づくりに参加してほしい」と慰留したのです。その言葉に感銘を受けた栄一は政府に残ることを決意し、大隈の許可を得て「改正掛」という政策立案組織を立ち上げます。

そして、新暦への転換、鉄道の敷設、富岡製糸場(官営模範工場)の設置、郵便制度の創設、度量衡の統一、租税制度の改革、新貨幣制度の整備などを矢継ぎ早に手がけました。

とくに力を入れたのは、兌換制度と金融の発達を図るための銀行設置法である「国立銀行条例」の制定です。こうした功績が評価され、わずか二年で栄一は大蔵大丞へとスピード出世を果たしました。

野に下り実業家の道へ

しかし明治6年(1873年)、軍備拡張を主張する大久保利通と対立し、大蔵省を退官します。

その後、三井組、小野組、島田組とともに第一国立銀行を設立して総監役(のちに頭取)に就任。さらに、抄紙会社(現・王子ホールディングス)、大阪紡績会社(現・東洋紡)、東京海上保険会社(現・東京海上日動)、共同運輸会社(現・日本郵船)など、実に五百もの企業の設立や経営に参画しました。しかも、会社の実権を握ってワンマン経営をしたり、大量の株式を保有したりはせず、経営が軌道に乗ると自身はサッと身を引きました。

東京・大手町のビジネス街を見守るように立つ渋沢栄一像(常盤橋公園内)

栄一が好んだのは、多くの人が出資してつくる合本会社(株式会社)という形態でした。しかし一方で、将来性があり社会に有益な事業だと思えば、会社の形態にはこだわらず、資金の提供を惜しみませんでした。 後年、栄一は次のように語っています。

「自宅へも皆さんが種々なことをいって見えますが、それが必ずしも善いことばかりではありません。否、寄付をしろの、資本を貸せの、学費を貸与してくれのと、随分理不尽なことを言って来る人もありますが、私はそれらの人々に、悉く会っています。世の中は広いから、随分賢者もおれば偉い人もいる。それをうるさい、善くない人が来るからといって、玉石混淆して一様に断り、門戸を閉鎖してしまうようでは、単り賢者に対して礼を失するのみならず、社会に対する義務を完全に遂行することができません。だから私は、どなたに対しても城壁を設けず、充分誠意と礼譲とをもってお目にかかる」(前掲書より)

このように栄一は、誰とでも会って有為な人々を積極的に支援し、そしてそれが自身の社会的責任だと考えていたのです。「自分は社会から儲けさせてもらっているのだから、それを還元すべきだ」というのが口癖だったといいます。また、東京商法会議所などの経済団体の創設にも尽力し、会頭として政府に実業界の要望を伝えていきました。

そんな大実業家となった栄一でしたが、古希(70歳)を機に経営の第一線から手を引いてしまいます。しかしその後も東京市養育院の院長として社会福祉に力を注ぎ、東京高等商業学校(のちの一橋大学)、東京女学館、日本女子大学校をはじめとする教育機関の創立・支援など、教育分野でも精力的な活動を続けることになります。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る