新一万円札の顔となる渋沢栄一とは、
どのような人物だったのでしょうか?
都内にある「渋沢栄一ゆかりの地」を、
歴史作家の河合敦さんが歩きました。
渋沢栄一像
「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一。その像は日本銀行を背に堂々と立っている
東京駅の日本橋口から外に出たとたん、思わずまぶしさに目を細めた。雨の予想は大きく外れ、陽光が降り注いでいる。
歩くこと約5分で常盤橋の裏手に出る。ここに大きな渋沢栄一像が立つ。栄一の没後、その事績を顕彰する渋沢青淵翁記念会がこの地に銅像を建て、一帯を公園として整備したが、太平洋戦争で供出されてしまった。現在の像は、昭和30年(1955年)に再建された二代目だ。
渋沢栄一像
東京都千代田区大手町2-7-2(常盤橋公園内)
アクセス:JR東京駅日本橋口より徒歩約5分
銀行発祥の地
銅像から歩いて約15分でみずほ銀行兜町支店に着く。
ここは明治6年(1873年)に栄一らが第一国立銀行を創業した地。和洋折衷の建物で、当時は観光地になるほどだったが、現在は銀行入り口脇の壁に「銀行発祥の地」と刻まれたプレートがあるだけだ。
「銀行発祥の地」プレートと筆者
銀行発祥の地
東京都中央区日本橋兜町4-3(みずほ銀行兜町支店)
アクセス:東京メトロ・都営地下鉄日本橋駅から徒歩約10分
渋沢栄一が賓客をもてなした晩香廬(ばんこうろ)
日本橋駅から東京メトロ銀座線に乗り、上野駅でJR京浜東北線に乗り換えて王子駅で降りる。眼前に江戸時代からの行楽地・飛鳥山が鎮座するが、ここに栄一の邸宅があった。建物群のほとんどは空襲で焼失したが、賓客をもてなす晩香廬と書庫の青淵文庫は現存する。今回は特別に渋沢史料館の井上潤館長に案内していただいた。
渋沢栄一がこよなく愛したと言われる晩香廬
晩香廬は大正6年(1917年)、栄一の喜寿を祝って清水建設が贈った洋風茶室。こぢんまりとした建物だが、淡い黄色の土壁をよく見ると、赤黒い点が無数に浮き出ている。館長さんにお尋ねすると、鉄錆だというので驚いた。土に鉄粉や古釘の煮出し汁を混ぜ、壁の表面に錆が浮き出るようにしたのだ。
暖炉の上部に、栄一の喜寿を祝う「壽(寿)」の文字が見える
中に入ると、内壁がキラキラと光っている。こちらは螺鈿に用いる、貝殻の内側の真珠質の部分が練り込まれているという。屋内の柱や梁は栗の木が用いられ、大きなテーブルや木製の手あぶり(火鉢)は楢材で統一されている。柱の面取りは手斧を使ってわざと荒削りに波打たせてある。
暖炉上部に、栄一の喜寿を祝う「壽(寿)」の文字がタイルを組み合わせて描かれているが、そのタイルをよく見ると一枚ごとに微妙に色が違う。これは、あえて焼く温度を変えて色を変化させているのだそうだ。天井は浮き彫りの装飾が施され、家具にはハートマークの意匠を用いるなど、手の込んだ内装が素晴らしい。
渋沢栄一の書庫・青淵文庫
青淵文庫は、栄一の傘寿と子爵に叙されたお祝いを兼ねて寄贈された、れんがおよび鉄筋コンクリート造りの建物。正面の柱には、渋沢家の家紋をモチーフにしたカラフルな装飾タイルが無数に貼り巡らされ、えも言われぬ美しさだ。さらに、屋内の閲覧室から眺めるステンドグラスも、心が洗われるようだ。壁の厚さが80センチもある閲覧室には、当時としては珍しい電熱器(ヒーター)が設置されている。
青淵文庫の外観
渋沢史料館
渋沢栄一の生涯と幅広い分野にわたる事績がわかる史料館
貴重な資料が渋沢栄一の精神を今に伝える
最後に渋沢史料館を訪れた。二階の展示室には、渋沢栄一の手紙や写真だけでなく、なんと亡くなる4年前に録音したレコードがあり、その肉声を聴くことができる。すでに80代後半であるが、大きいしっかりした声の持ち主だった。井上館長さんが丁寧に説明してくださり、大いに話がはずんだ。半日ではあったが、渋沢栄一ゆかりの地を巡ることで、改めて彼の偉大さを実感することができた。
晩香廬・青淵文庫・渋沢史料館
東京都北区西ヶ原2-16-1(飛鳥山公園内)TEL:03-3910-0005
開館時間:10:00~17:00(晩香廬・青淵文庫は15:45まで)
休館日:月曜日(祝日・振替休日の場合は翌平日)
入館料:一般300円 小中高100円(史料館・晩香廬・青淵文庫共通)
アクセス:JR王子駅南口から徒歩約5分/東京メトロ西ケ原駅から徒歩約7分
詳しくはこちら 渋沢栄一記念財団ホームページ
※渋沢栄一の生涯については、「日米親善に尽くした偉大な実業家 渋沢栄一」をご覧ください