なにももたないわれらは、
大いに楽しく生きている。
アーバッサラ神(光り輝く神)のように、
喜びを滋養として生きている。
「ダンマパダ」(200)
わたしたちはためることが好きです。必要なもの以外にも、「美しいから」「役に立つから」「捨てるのがもったいないから」と、いらないものをいっぱいため込んでしまいます。けれども、それは一時的にあらわれる現象にすぎません。
バラの花を生けたとします。それを適当な場所に置くととても美しく見えます。しかしそのバラが美しいといっても、それを暗いところに置けば、先ほどのあの美しさはまったくありません。
つまり、そのときの自分の心の状態や、周りの環境などによって、美しいとか大切だとわたしたちは思うのです。その条件が変われば、せっせとため込んだものにもうんざりしてしまうかもしれません。
そのことがよくわかれば、むやみにためることはなくなります。そもそもためようとするのは、根本的には不安があるからなのです。先行きが不安、仕事が不安、老後が不安だからといって、お金や知識や技術などをためて備えようとするのです。
今挙げたように、だからためようとするものは、たんにお金やものだけではありません。たくさんの友人や知人、知識や技術もためます。名誉や権力、功績などもためておきたくなります。しかし、いかにためても、絶対に安心ということにはなりません。不安は、いつでもつきまといます。なぜならこの世は「無常」だからです。変化しないものはなにもないからです。
「無常」にさからっていくら努力しても、ただくたびれて、さらに不安が生まれるだけです。
sati(気づき)の実践者は、(つねに)つとめ励む。
かれらにはよりどころはない。白鳥が池を立ち去るように、この世(今世)、あの世(来世)を捨てる。
「ダンマパダ」(91)
仏教は「得る道」ではなく「捨てる道」を教えます。捨てる生き方を歩もうとすると、身も心も軽くなって楽な気持ちがずっとつづくのです。「すべてを捨てる」ということは「なにものにも依存しない」ということです。それはたんに、ものに頼らないことだけではなく、神であろうが仏であろうが、まったくなににも依存しない生き方なのです。それが真の自由ということです。
悟った人は、すべてのものが無常であることを実感して生活しています。だから、なにもためることはありません。心になんの不安もありません。食事さえも、体を維持するために必要な量だけにかぎります。空を飛ぶ鳥たちが、自分の足跡を空に残さないような生き方になるのです。
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「ダンマパダ」とは、「真理のことば」という意味です。わたしは「お釈迦さまのことばにいちばん近い経典」と言われるパーリ語の「ダンマパダ」を日本語に直訳し、一人でも多くの人にお釈迦さまの教えを伝えたい、と願っています。
お釈迦さまの教えを「一日一話」というかたちでまとめ、それぞれにわたしの説法を添えました。大切なことは、お釈迦さまの教えを少しずつでも実践することです。そうすれば、人生の悩みや苦しみを乗り越えていくことができるでしょう。
アルボムッレ・スマナサーラ
バックナンバー「 原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話」