この体は衰え果てた。
病の巣であり、もろくも滅び去る。
腐敗のかたまりで、くずれてしまう。
生命は死に帰着する。
「ダンマパダ」(148)
死はどこにでもある客観的な事実です。花を見ていても、瞬間瞬間に死にかけています。わたしたちの寿命もかぎられています。体は疲れてきて、わたしたちは、瞬間瞬間、もう死にかけているようなものです。
「すべてのものは消えていく。同じようにわたしも消えていく」という経典のことばがあります。わたしたちは、「人が死ぬのは当たり前だ」と知っていても「自分は、まだ死なない」と思っています。お釈迦さまは、「死を瞑想として観察しなさい」と教えられています。
死の瞑想とは、さまざまな死に接したとき「自分もこのように死ぬのだ」と念ずることです。人間の死だけでなく、生きとし生けるものの死、それこそ動物や昆虫、植物などの死に接するたびに、「わたしもいつまでも生きているわけではない。わたしも同じように死ぬのだ」と、死というものを「わがこと」として観察していくのです。
この瞑想を深めていくと、やがて「死ぬのがこわい、どうしよう」という不安や恐れはなくなってきます。死というものは、当然のことわりであって、大したことではないとわかってきます。
すると、人とも争わなくなります。なにか不愉快なことを言われても、「そんなことはどうでもいいや。どうせいつか自分は死ぬんだから、争うなんて馬鹿らしい。それよりも相手と仲良くしよう」というふうになります。財布がなくなっても、リストラに遭っても、けっして投げやりな気分からではなく「まあいいか。みんななくなるものなのだから」という諦観に立てます。生き方が、とても楽になるのです。そして、そのことに気づいたときから、「今」が充実したすばらしい人生に変わっていくことでしょう。
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「ダンマパダ」とは、「真理のことば」という意味です。わたしは「お釈迦さまのことばにいちばん近い経典」と言われるパーリ語の「ダンマパダ」を日本語に直訳し、一人でも多くの人にお釈迦さまの教えを伝えたい、と願っています。
お釈迦さまの教えを「一日一話」というかたちでまとめ、それぞれにわたしの説法を添えました。大切なことは、お釈迦さまの教えを少しずつでも実践することです。そうすれば、人生の悩みや苦しみを乗り越えていくことができるでしょう。
アルボムッレ・スマナサーラ
バックナンバー「 原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話」