仏の教えを喜び、
慈しみに住する修行僧は、
一切の現象が鎮まることから生まれる
涅槃に到達するであろう。
「ダンマパダ」(368)
すべては心からでています。心があって、考え、話し、行動しています。すべては心のあらわれだから、心が汚れていればすべては汚れたものになります。心がささくれだって荒れていれば、争いが起きます。心が苦しめば、どこにいても苦しい世界です。天国に行けたとしても苦しいでしょう。
逆に、心が安らかであれば、どこにいても安らかな世界になります。やさしい慈しみの心があれば、すべては清らかになります。人間関係も円滑に進みます。平和な心があれば、平安な世界で暮らすことができます。
すべての発生源である心を清らかにすれば、自然に生きていけるようになります。だれかと会話をしていても、そのことばは相手にたいする憎しみや嫉妬、怒りのことばにはなりません。相手を傷つけることばではなく、自然と他の生命にたいしてやさしいことばになっています。
ところが、根源である心を清らかにしないで、「わたしはやさしいことばを使うぞ」と決意してみてもつらくなるばかりです。まずやさしい心を育てましょう。そうすれば、わたしたちの行動はやさしい行動に変わります。慈しみの心さえあれば、生き方そのものが、そのまま正しい生き方になってしまうのです。
お釈迦さまは「瞬間でも慈しみの心を育てなさい。それだけでも立派なことである」と説かれました。慈悲の心がなければ、もはや仏教ではないといってもいいと思います。慈悲は仏教の真髄なのです。しかし、慈悲の心はなにもせずに放っておいて生まれてくるものではありません。努力して育てていくものです。
お釈迦さまは、日常のなかで実践できるものとして、「慈悲の瞑想」を教えました。慈悲の心を育てるには、まず「自分自身が幸せでありたい」ということを、よく確認しなければなりません。そしてつぎに「自分だけが幸せでいられるはずはない」という当たり前の事実に気づくことです。自分の幸せは、周りの人びとの幸せがあってこそ成り立つのです。
慈悲の瞑想とは、どんなときにも心のなかで「すべての生命が幸福でありますように」と念じていくものです。まず「自分の幸せ」、つぎに「親しい人の幸せ」、そして「親しくない人の幸せ」「嫌いな人の幸せ」「自分を嫌っている人の幸せ」、最後に「生きとし生けるものすべての幸せ」を念じるのです。そして、できるだけ怒らないようにしていかなければなりません。ひとたび怒ったならば、慈悲の心はたちまち消えてしまいます。
「わたしを嫌っている人も幸せでありますように」「わたしが嫌いな人も幸せでありますように」と念ずるときには、やはり腹が立ったりするかもしれませんが、がまんして念じるのです。するとそのうちに、「あの人も、この人も幸せであってほしい」という気持ちになってきます。「みんなが幸せであってほしい。どうして、あの人たちは苦しんでいるのだろう」と、他人にたいする心の視野が広くなってくるのです。慈悲の瞑想が深まっていきますと、親しい人の幸せを念ずるときには、どんどん人数がふえていきます。
「生きとし生けるものが、幸せでありますように」と、朝から晩まで、寝ていても思いだせるほどに念じていくのです。
そうすると、自我中心の心が、徐々に、慈しみの心に変わっていきます。次第に人生の悩みや苦しみも消えていきます。こうして、慈悲の心が育つとやさしい心になっていくのです。人の幸せを喜べるような心になっていきます。それこそが、エゴを乗り越える道なのです。
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「ダンマパダ」とは、「真理のことば」という意味です。わたしは「お釈迦さまのことばにいちばん近い経典」と言われるパーリ語の「ダンマパダ」を日本語に直訳し、一人でも多くの人にお釈迦さまの教えを伝えたい、と願っています。
お釈迦さまの教えを「一日一話」というかたちでまとめ、それぞれにわたしの説法を添えました。大切なことは、お釈迦さまの教えを少しずつでも実践することです。そうすれば、人生の悩みや苦しみを乗り越えていくことができるでしょう。
アルボムッレ・スマナサーラ
バックナンバー「 原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話」