仏弟子は、
いつもよく覚醒していて、
昼も夜もつねに法を念じている。
「ダンマパダ」(297)
わたしたちはお釈迦さまだけではなく、法も念じます。法とは「教え」です。 法を念ずるとは、お釈迦さまの教えをつねに考えていることです。いくらお釈迦さまが模範だといっても、今、実際には生きておられません。お釈迦さまが、この世からいなくなった時点で、教えがお釈迦さまのかわりをするのです。お釈迦さまご自身も、遺言として「わたしが亡くなったあとの指導者は、わたしの教えです」と説かれています。
法を念ずると、どんな問題に出遭っても「どう対応すべきか」「どのように生きるべきか」がわかってきます。
世の中には、さまざまな誘惑があります。わたしたちが欲にかられて怒りの心で生きていれば、修羅道や餓鬼道、畜生道におちいってしまうでしょう。けれども、法を念じていれば、外から誘惑されても自分を戒めることができます。「悪いことは悪い」と言いきる勇気がでてきて、おのずと明快な答えがでてきます。
お釈迦さまは、人生にたいしてあらゆる実験をされています。だから、その教えを念じていれば、暗闇のなかで道をさまよい、失敗することはありません。ロスがなくなるのです。人生は、あともどりがききませんから、やってみなくてはわからないというのは、とても危険なことです。なにかをためしに十年間やったとします。もし失敗したら、再び十年前にもどることはできません。だから、なにかをためす前にお釈迦さまの教え(法)から学ぶのです。
お釈迦さまは「怒りをもって、見栄をもって、高慢をもって行動すると、確実に悪い結果になる」とおっしゃいました。やさしい気持ちで、人を助ける気持ちでいれば、たとえ望んだ結果にならなくても、けっして悪いことにはなりません。最小のものであろうと、よい結果になるのです。
お釈迦さまは「人生は苦しみである」とも説きました。法を念ずるとは、「それは、どういう意味だろうか。なぜお釈迦さまは、そのように説いたのだろうか」と考えるのです。
この世には、客観的な苦や楽というものはありません。楽しみだけを追っていると、すぐに苦になります。シーソー遊びは、上に行くと気分が爽快です。しかし、ずっと上にいたままではちっともおもしろくありません。上に行ったり下に行ったりするからおもしろいのです。人生とは、このシーソーのように、苦楽が循環しています。
究極的には、いくら幸福を追い求めても、人生は不満足に終わります。「その不満足というものが苦である」とお釈迦さまは説かれたのです。
さらに「生老病死が苦である」とも説かれました。「生苦」とは、生まれる苦しみです。もっとも、わたしたちは、生まれたときに苦しいかどうかは覚えていません。しかし、母親の場合には、あれほどの苦しみはないでしょう。もっとも苦しみを味わうのは産むときなのです。「老苦」とは、老いる苦しみです。歳をとることは、喜びではありません。体力は落ちる、視力が落ちる、腰が曲がる。ひざが痛い、腰が痛いと言いながら一歩一歩、歩くのは大変なことです。「病の苦しみ」「死の苦しみ」はいうまでもないことでしょう。だれにとっても、生老病死は苦しみであり、例外ではありません。
このように、お釈迦さまの教えを一つ一つ考えていくこと。それが「法を念ずる」ことです。
法を念ずれば、かならずわたしたちの生き方は変わります。「なるほど、お釈迦さまの教えはすごい」と納得し、心がしっかりと確立されていくからです。
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「ダンマパダ」とは、「真理のことば」という意味です。わたしは「お釈迦さまのことばにいちばん近い経典」と言われるパーリ語の「ダンマパダ」を日本語に直訳し、一人でも多くの人にお釈迦さまの教えを伝えたい、と願っています。
お釈迦さまの教えを「一日一話」というかたちでまとめ、それぞれにわたしの説法を添えました。大切なことは、お釈迦さまの教えを少しずつでも実践することです。そうすれば、人生の悩みや苦しみを乗り越えていくことができるでしょう。
アルボムッレ・スマナサーラ
バックナンバー「 原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話」